BBOYINGの歴史

『誕生』


 “Rockwell”9)によると、「BBOYINGは1960年代後半、ニューヨークのサウスブロンクス(ハーレム、ブルックリンとの説も)のBlock Partyで生まれ、当初は黒人によって踊られ、Up Rockingメインのスタイルだった」とある。

確かに“Dainasty Rockers ホームページ”10)には、『1968年にブルックリンで「Rock Dance(Rocking)」というダンスが生まれ、音楽のRock & Rollと名前が似ていることから混乱をさけるために「Up rocking」という名前に改名した』とある。

そして“Mr.Wiggles ホームページ”11)には、『1968年頃、Rubber bandとApacheという男が、ブルックリンからニューヨークにあるDISCOに新しいダンスをもってきた。これが私たちの知っている「Up rocking」であり、後に「Brooklyn Rock」と呼ばれるものだ』と書かれている。


 しかし“DANCER’S DELIGHT”12)によると、『誰が始めたのかは明確に記録されてはいないが、このBBOYINGが生まれたニューヨークサウスブロンクス地区で、それらしき踊りが現れ始めたのが1970年代前半。ジェームスブラウンのヒット曲“Good Foot”にちなんでつけられたGood Footと呼ばれる踊りがその走りと言われる。この頃は、足だけを使うシンプルなフリースタイルの踊りであった。その後この踊りが進化し、やがて“boie-oie-oings”と呼ばれるようになった。またこれに手を使って地面で体を支えながら踊るものが現れはじめFootworkのスタイルが生まれた。ちょうど同じころブルックリンではBrooklyn Rockと呼ばれる、立ったり座ったりするような踊りが登場し、後にUp Rockと呼ばれるようになった』とある。


 BBOYINGの誕生については様々な説があり、正しい誕生の地や年代は明らかにならなかった。しかし、これが正しいのかも知れない。様々なスタイルのダンスや動きを改良し進化させてきたBBOYINGには、あえて確定的な答えがあるべきではないと考えられるからである。ココまでではRock DanceとGood Footの二つのルーツしか探し出すことが出来なかったが、様々なスタイルのダンスが進化してTop RockやFootworkの母体となったのだろうということだけは、これまでの結果から考えることが出来る。


『確立』


 様々な説があるBBOYINGの誕生であったが、そのBBOYINGはやがて広がり盛り上がることとなる。これにはDJ Kool Hercの存在が大きかった。彼はアフリカ・バンバーターと並び、“HIPHOPの父”などと呼ばれている。何故ならばハークは“Breakbeats”という概念を思いつくからであった。


 映画“The Freshest Kids”6)によると、「ハークが流す音楽はいつもBreakが利いていて、そこはBreakbeatsと呼ばれた。音楽というよりむしろ延々とビートが鳴り響いているといったものであったが、ハークはものすごく高揚感のあるビートを流し、集まった連中は夢中になって踊っていた。だからハークはみんなが盛り上がるBreakbeatsを引き延ばすために同じレコードを2枚使った」とある。ハークは初めて同じレコードを2枚同時にかけ、ある特定の部分を引き延ばすということを思いついた人物であった。ハークのPartyには、自然発生的にダンサー達が集まるようになり、彼らは新しいステップを考え出すのに夢中になっていたのであった。


 映画“The Freshest Kids”6)によると、「新しいダンスが生まれるとみんなが取り入れるが、その熱は時間とともに冷め、それは一部の人間だけのものとなる。踊れる奴は色々なポーズをきめ、かっこよく踊るうちに周りに人が集まり対抗してくる奴も現れる。その集まった人の中にNigger Twinsがいた。床で踊るBBOYは1975年頃現れ、その後ブームは始まった。この頃にはBBOYINGの第一世代と呼ばれるNigger TwinsにZulu Kings、SPY、TRAC2、そしてJOJOやジミー・DなどのBBOYたちが登場し、今あるBBOYINGの動きの基礎を築いた」とあり、さらに「知られていなかったBBOYINGは1975年頃、DJ Kool Hercによって広まり、その結果多くの知られていないダンスがストリートに顔を出した。ダンスが次々と紹介されると他の人種にも飛び火し、ヒスパニックなどの黒人以外の人種も踊るようになった」とある。

この世代のBBOYINGにはまだウインドミルやヘッドスピンといった体ごと回転するPower MoveはなくFootwork中心であったが、プエルトリコ系のBBOYが初めて背中で踊ったことにより、その動きの可能性はさらに広がった。


 こうしてハークによるBreakbeatsと第一世代のBBOY達によって発展したBBOYINGは、1970年代後半、ようやく一つの文化として確立されたのであった。


『衰退Ⅰ』


 しかし、BBOYINGも77年頃から黒人の間ではその人気を失いつつあった。DISCOブームの到来である。映画“The Freshest Kids”6)の中では、「79年になると周囲からもう終わってると言われた」、「79年にはニューヨークマンハッタンのBBOYは犯罪に走ったり、定職に就いたりですっかり影を潜めていた」と述べられている程であった。しかし、そんな中でも変わらずにBBOYINGを続けたBBOYがいたのであった。その中にRock steady crew設立者、ジミー・DとJOJOがいた。


 彼らはBBOYINGのブームが終わったと言われ始めた1977年に、変わらず(Steady)に踊り続けることを目的として“Rock steady crew(以下RSC)”を結成した。その後、1979年にJOJOとジミー・DはRSCを新たなる次の段階に持っていくためにCRAZY LEGS達をメンバーとして加えたのであった。彼らは意欲的に活動しマンハッタン支部をはじめとし、各地に支部を作った。RSCの転機は1981年、人々がCrazy-Legs、Ken Swift達のマンハッタンでの活動に気がつき始めたことだった。


 1981年8月、写真家であり彫刻家であるHenry ChalfantがRSCにリンカーン・センターでの野外公演への出演のチャンスを与えた。マンハッタンを騒然とさせるバトルをしたいと思ったCrazy-Legsは、この公演でRSCのライバルであるDynamic Rockersとバトルをするというものだったが、これはその後のRSCにとって決定的なものとなった。なぜならば、この公演は雑誌の表紙を飾り、新聞に取り上げられ、そして地元TV局で報道されたからだ。これをきっかけにRSCは世界中のマスコミにとりあげられた。

 RSCの活動が、時代遅れと思われていたBBOYINGが再び隆盛させるきっかけとなったのであった。


『隆盛Ⅰ』


 RSCの活躍をテレビで見たかつてのBBOY達は、これをきっかけに再びBBOYINGを始めた。リンカーン・センターでのバトル以降、メディアの中心であるニューヨークはHIPHOPに注目し、こぞって雑誌や新聞に記事を取り上げ、HIPHOPに火をつけたのであった。BBOY達はプエルトルコ系のBBOYが生み出したウインドミル、ヘッドスピン、ハンドスピンといったアクロバティックな要素を取り入れ、それをさらに発展させた。彼らはBBOYINGの第二世代と呼ばれ、Footworkが中心だったBBOYINGをさらに広げていった。


 “DANCER’S DELIGHT”12)によると、「それぞれのPower Moveは、色々なところから取り入れられたと言われる。有名なところでは、カンフーの起き上がる動きを連続することで生まれたウインドミルであろう。それ以外にも、単に似た動きが偶然に存在するだけかもしれないが、ヘッドスピンはアフリカの民族ダンスに、エルボースピンはロシアンダンスにルーツがあるなどと言う説もある。」と書かれている。

 

1982年、この波に乗るかのように初のHIPHOP映画と呼ばれる。映画「WILD STYLE」13)が制作され、RSCが出演した。しかし、BBOYINGが全米だけでなく、世界的に知られるようになったのは同年1982年公開された映画「Flashdance」14)(RSC出演)で取り上げれた時であった。そのシーンはごく数十秒のものであったが、その衝撃はかなりのもので世界中に影響を及ぼした。

Flashdanceで一部の地域から世界中に広がったBBOYINGは、もちろんアメリカの西海岸にも広まった。これに刺激を受けた西海岸の若者達はBBOYINGを始め、当初はNYに比べ遅れを取っていたが、独自のスピンや動きを取り入れ高度なスピンテクニックを築き上げていった。


 リンカーン・センターでのバトル、New York City Breakersの他のチームには無いほど過度なメディア露出、そして映画「Flashdance」公開により、BBOYINGはアメリカ全土で一躍社会現象となり人口が爆発的に増えた。


「Flashdance」以後、「Breakin’」15)、「Breakin’2」16)、「Beat Street」17)などBBOYINGやSTREET DANCEの映画が次々に作られ、その熱はますますヒートアップしていった。1984年にはロサンゼルスオリンピックの開会式のオープニングセレモニーを飾る程であった。


『衰退Ⅱ』


 ブームとなり、人口が増加したBBOYINGは街の至る所で目にすることが出来た。電車の中で踊っている子どもが出てくるほどであった。そのため様々な練習場所で怪我が発生する事故などが起こり始め、警察や役人が社会の迷惑だとしてダンスを禁じるようになった。メディアや企業などはビジネスとして利用し、稼いだ後は手の平を返したかのように背中を向けたのであった。

“The Freshest Kids”6)での中で、RSCのCrazy-Legsが「ゲットー出身の金に困った若者がどん底の状態から突然世の中で成功し仲間とともに大金を手にする。ところがすぐに状況は暗転、状況は最悪だった。」と述べるほどそのブームは一気に冷めていった。


 こうして1980年代前半のアメリカにおけるBBOYINGの過度なメディア登場は、85年以後、BBOYINGがメディアへの露出が減少した時に、大衆に「BBOYINGは単なる流行だったのだ」というイメージを持たせる結果を生んだ。クラブでBBOYINGをやろうものなら、時代遅れの目で見られ、多くのBBOYが姿を消した。多くのBBOYは再びギャングへと戻って行った。これがBBOYING冬の時代である。


 その後すぐにRAPが流行り始めた。RAPは購入した後自宅で簡単に聴くことが出来るため、企業は商品価値が高いものとして食いついたのであった。ここでHIPHOP=RAPとして社会に流通させたために今現在もHIPHOP=RAPと勘違いする人が多くなってしまったと言えるだろう。


『復興』


 一人歩きしてしまったRAP業界であったが、そんな中にもHIPHOPの本質を理解しているMCがいた。KRS・ワンである。彼は少年時代、DJ Kool HercがブロンクスでBlock Partyで流す音楽を自宅から聴いていた。言うなれば少年の頃からBreakbeatsを耳にし、BBOYINGの発展をその目で見てきた人物である。

そんな彼がHIPHOPの本質を理解することはたやすい事であったのだろう。“The Freshest Kids”6)によると、『1991年にKRS・ワンは自分達のイベント「Source Awards 1991」にRSCを出演させ、BBOYに新しい居場所を提供した。そこから全てが変わった』と述べられている。


 さらに新世代のBBOYも頭角を現し始めた。新世代BBOYはその独創性によってより複雑な動きやスピンを生み出し、BBOYINGをさらに発展させた。

 また“DANCER’S DELIGHT”12)によると、「こんな状況でもBRONXには本物があった。真のBBOYたちは、世界中で根強くBBOYINGを続け、新たなる時代の到来を待った。特にロサンゼルスやサンフランシスコなどの西海岸の都市、そしてヨーロッパでは、POWER MOVEの進化や新たなコンビネーションの発明が、一部のBBOYの間で確実になされていた。」とある。


 これを受けて90年代始めにはロサンゼルスやサンフランシスコで後に「The resurgence of BBOYING」と呼ばれるBBOYINGの復興ムーブメントが起こり始めた。このムーブメントは、ゆっくりではあったが着実に全米、そして全世界にひろがった。また同時期にヨーロッパでは、「Battle Of The Year」というイベントも始まった。

 1992年にはRSCがついに正式に活動を再開。BBOY SummitやRSC Anniversary(1991~)といったイベントを開催し、世界中からBBOYが集まるようになった。こういったムーブメントは旧世代のBBOYが企画を手がけ、開催してきたことによって、新世代のBBOYはBBOYING(HIPHOP)の本質に直接触れることができ、流行をこえた一つの文化として確実に根付いていったのであった。

 “The Freshest Kids”6)には、「楽しむために参加したつもりであったが、あの場にいったことで自分をより理解できた。皆の話を聞くうちに自分の精神力とか、なぜニューヨーク(RSC Anniversary開催地)にきたのかとか色々わかってきた」と言われているほど、このムーブメントが与える影響は計り知れないものであった。


『隆盛Ⅱ』


 文化として確実に根付いたBBOYING(HIHPHOP)は、KSC・ワンによってさらに大躍進する。彼はBBOY達を自らのミュージック・ビデオに出演させたのだ。これ以来BBOYINGは再び注目され、多くのRap Music Videoに取り入れられた。忘れられていたHIPHPOPの神髄は彼の活躍で復活したのである。

 BBOY達は急に脚光を浴びて大物アーティストの作品にも出演した。この後、多くの若い世代が想像以上に熱中し、海外にも波が広がった。

 

 BBOYINGのその動きは芸術とまで言われ、多くの人々にアートとして認められて行った。現在ではアメリカの正統派のダンス教室でもBBOYINGのクラスが設けられているところもある。「バレエの様に技術の高いダンス」として評価されているのである。


 現在BBOYINGには大きくわけて2つのスタイルがある。一つは、フットワークを主体とする通称リズムブレイキング、そしてもう一つは大技を主体とするパワーブレイキングである。リズムブレイキングはRSCが提唱するスタイルで、「BBOYINGが体操ではなくダンスである以上、音楽のリズムを大切にそしてBBOYの個性をだしていくべきだ」というコンセプトのもとに成り立っていると言える。そしてパワーブレイキングは、アクロバティックな技を磨くことに重点を置き、確かにダンサーの個性や、音楽に対する感性は、回ってしまうと出しにくいものがあるが、そのインパクトは強い。現在世界中のBBOYの間では、この2つのスタイルをめぐる論争が行われている。

群馬大学ストリートダンスサークル B-STYLE 。今年で創立20周年を迎える。現役在籍者数は総勢なんと約100名!県内外で幅広く活動している。荒牧キャンパス第二体育館にて、毎週水・日曜日19時~から全体練習を行っている。